自分が探していたものは、見つかりました。

1月下旬、自分が探していたものは、見つかりました。

答えは、本当に自分の内にありました。

 

探求が完全に終わった訳ではありませんが、

その全ては、私の内にある事はわかりました。

そして、それが不可知であることも。

 

自分でないもの(エゴ)を自分だと信じ込んでいた私から(エゴ)目覚めました。

いったいこれは何の謎解きなんでしょうか。

でも、近代的文化にあまり属さず、自然と共に暮らしている人達の中には

あまり強固なエゴは発達していないのかもしれません。

そもそも全体性に気づいていれば、こんな勘違いは起きないはずです。

 

ですが、そんな事も全部含めて

創造主、神、意識、空、それ、どんな呼び名でもいいのですが、

「それ」があるとしたら、宇宙のちり一つとして「それ」でないものなんて何処にあるのでしょう?

蟻がコロニーを形成するのように、私たちも動物として自然の一部として、コロニーを形成しているのでは?

私たちが「私」として信じているエゴ、思考、自由意志でさえも、「それ」からかつて1度として外れたことなんてあったのでしょうか?

 

「それ」のみが生き、「それ」のみがありとあらゆる多種多様も生きている。

 

エゴの空っぽさに気づいたので、もうエゴのおしゃべりと作り話に道を譲りません。

エックハルトさん達がいうように、エゴの超越、解放などがこれに(私)起きるのかわかりませんが、キリスト、ブッダが道を指し示したように、それが人間の自然の摂理なら本来誰にでも起こるのことなのかもしれません。

 

 

 

 

 

ミニマリストやノンデュアリティ

あまり書く事もないのに、書き始めてしまった。

私、40代、孤独。

 

家の中には、キラキラと奇跡の時間を生きている美しい子供が一人。

あまりに美しくて泣ける時があります。

 

だから私も、奇跡のいまに生きている訳ですが、

その「永遠のいま」の美しさが本当の意味でわからないもどかしさ。

ゆえに苦悩があります。

人生に飽き、幻滅し、希望もないのに「永遠のいま」がわからない。

 

最近、ミニマリストやノンデュアリティをネットで見かけるようになってきました。

ミニマリストはかなり流行中ですね。

 

物を減らし、自分のやりたい事、したくない事。思考の整理をし。

いまここの場を楽しむ。味わう。そういう方が増えてきました。

 

物を減らすという物理的な行為で、所有という幻想を断ち切る。

思考がいかに自作自演の幻か見破る。

ミニマムな暮らし方の人の中に

正にノンデュアリティな状態に思える文章をちらほら見かけます。

 

ノンデュアリティ(非二元)は、結局、あると思っていた私自身さえいませんよ〜、

所有出来ているものなんか何一つありませんよ〜、

本当は生まれて死ぬものなんてありませんよ〜。

みたいな取りつく島のないストーリーですし、

私自身は、そのチラ見しかしたことがないので、そのストーリーは、そのメッセンジャーの方に委ねます。

 

でもチラ見したがゆえに、この世が正に夢の中のような世界で

何か為さなければならないものもなく。

意味のあるものもなく。

ただあるだけ、なぜかある世界。

 

でもいまここがそこ。

いまここもそこなんです。

そこから離れたことなんてないのに、いま見えない、わからない。

私の周りの全てがそこなんです。私も。

机もコップもパソコンもテレビもゴキブリも空気もうんちも全てがそこ。

「あるだけがある」

でもこのシンプルさがわからない。